最後に息子を

聖書: マタイによる福音書 21章 33節~38節

2021年10月17日(日): 聖霊降臨節第22主日礼拝説教

 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を(イザヤ5:1)」。イスラエルを思う神の愛の歌です。「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった(イザヤ5:2)」。自らを省みる思いが少しでもあれば、「もう一つのたとえを聞きなさい/収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した(21:33-35)」。イスラエルは、神の思いを拒み続けてきました。
 「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った(21:37)」。神の忍耐と愛の深さを思わずにおれません。しかし農夫たちは、「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう(21:38)」と言って、「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった(21:39)」。これより数日後、神の独り子は十字架にかけられて殺されてしまいます。その結末は、譬え話よりも、もっと悲惨で残酷に見えてなりません。
 自らを省みる思いが少しでもあれば、「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』(21:42)」。捨てられたイエスが、わたしたちを罪から救う『key stone』となられました。最後に命を。命の親石なしに、わたしたちは生きられません。最後に愛を。愛の親石なしに、わたしたちは救われません。最後に息子を。ここに、わたしたちを救う『key story』があります。