見えるように

聖書: マタイによる福音書 20章 29節~34節

2021年9月19日(日): 聖霊降臨節第18主日礼拝説教

 『あなたが眠りに就くのを見るのが今日で最後だと分かっていたら/わたしはもっとちゃんとカバーをかけて神さまにその魂を守ってくださるように祈っただろう(「最後だと分かっていたら」ノーマ・コーネット・マレック)』。同じ道を歩んでいたとしても、同じ思いで歩んでいるとは限りません。ただ間もなく十字架の時だと分かっていたら、もっとちゃんと『今日』という日を見つめることができたのでしょうか。
 「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ(20:29-30)」。群衆は黙らせようとしますが、ただ二人は叫び続けました(20:31参照)。イエスが自分たちの前を通られる『今日』は、もう二度とやって来ないかもしれません。そう思うと、二人は叫ばすにおれませんでした。
 一方の弟子たちは、イエスと共にいる『今日』を当り前のように考えていたのではないでしょうか。ただ十字架の時を迎えて、『今日』という日の重みにやっと気づかされました。「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った(20:32-33)」。わたしたちも、見えているようで見えていません。もっとちゃんと『今日』という日を見つめ直していきたいのです。
 失って初めて気づかされることの何と多いことでしょうか。ただそれが、わたしたちの現実です。十字架を前にして、わたしたちも『今日』祈りたいことがあるのではないでしょうか。十字架を前にして、わたしたちも『今日』という恵みの豊かさが、はっきりと見えるようになりたいのです。