平和・愛

聖書: マタイによる福音書 19章  16節~22節

2021年8月29日(日): 聖霊降臨節第15主日礼拝説教

 青年は、憮然として言い返します。「そういうこと(19:18-19参照)はみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか(19:20)」。とても模範的な青年は、何をそんなに焦っているのでしょうか。『欠ける(ギリシャ語:フステレオ)』には、『競争に遅れる』という意味があります。誰かと比べて、何かが欠けているように感じていたのだと思います。
 「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています(ルカ18:12)」。これは、律法の規定を越えています。こうして、律法に生きるということが、一種のステータスになっていきました。天国を思いながら、心は自分に向いています。そんなものを握り締めたままでは、天国も遠くに感じるばかりです。彼のように、わたしたちも、手放すことが苦手です。
 わたしたちも、『善いこと』から解放されて、『善い方』に頼ることが求められています(19:17参照)。善い方は、家来の借金をすべて赦してくださいました(18:21-参照)。善い方は、子どもたちを御許に招いてくださいました(19:13-参照)。善い方によって、わたしたちもまた、そのままに赦され、そのままに招かれました。そんなことができるのでしょうか。
 青年は、切に願いました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか(19:16)」。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる(19:26)」。それができるのは、神が愛だからに他なりません。青年も、いつか気づくときがありますように。『このままに愛されている』と気づいたときに、この心も『永遠の命』に満たされることでしょう。