いのちの種

聖書: マタイによる福音書 13章 1節~9節

2021年5月16日(日): 復活節第7主日礼拝説教

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った(13:3)」。これは、単なる農作業の話ではありません。これは、わたしたちの心の譬え話です。「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である(13:18-19)」。ファリサイの人々の頑なな心を思います。石地に落ちたものとは、ペトロの弱い心を思います(13:20-21参照)。茨の中に落ちたものとは、わたしたちの煩う心を思います(13:22参照)。わたしたちの心も、よく耕さなければなりません(13:23参照)。
 ただイエスさまは、ご自身の語る言葉を、どうしてあんな小さな種に譬えられたのでしょうか。イエスさまは、春の過越の食卓で、ブドウの話をされました(ヨハネ15:1-17参照)。それから五十日後に、弟子たちは、聖霊を受けて各地へと押し出されていきました。やがて夏になり、いよいよブドウの季節を迎えます。ブドウがしっかりと繋がっているのを見て、ブドウが豊かに実を結ばせているのを見て、弟子たちも、そこで初めて実感しました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である/わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハネ15:5)」。
 種には、芽を出し、花を咲かせる時があります。種には、葉を出し、実を結ばせる時があります。よい畑でも、時が来なければ、芽を出すことも、実を結ばせることもありません。ここに、神さまの奥義があります。だから、「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです(ヤコブ5:7)」。わたしたちの心にも、イエスさまの言葉の種が蒔かれています。ならば信じましょう、芽を出す時を。ならば委ねましょう、実を結ぶ時を。わたしたちもまた、やがてその時を迎えるのです。