笛吹けど

聖書: マタイによる福音書 11章 16節~19節

2021年4月18日(日): 復活節第3主日礼拝説教

 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ(3:7-8)」。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。しかし人々は、「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い(11:18)」、これを拒みました。
 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き/貧しい人は福音を告げ知らされている(11:5)」。ナザレのイエスは、人々に福音を知らせました。しかし人々は、「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と(11:19)」言って、これを妬みました。
 人々は、十字架のイエスを罵って言います。「十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう(27:42)」。そうなれば、彼らは信じたのでしょうか。結局あれこれ理由をつけて、信じることはなかったと思います。アダムの時代から、人は自らの罪を認めることが、本当に苦手です。
 こんな時代を何に譬えたらよいのでしょうか。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった(11:17)」。人の頑なさに、真の知恵を願わずにおれません。「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め(箴言9:10)」。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた(4:17)」。『とびらの外に立ちつづけて/救いのイェスは待っておられる(讃美歌430番)』。これは決して、イメージの話ではありません。これは確かな、福音のメッセージです。その姿を思うと、わたしたちもまた、頑ななままではいられません。