たれか洩るべき

聖書: マタイによる福音書 6章 29節~34節

2021年2月21日(日): 受難節第1主日礼拝説教

 ある人が、心の中でこう祈りました。「わたしは/この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています(ルカ18:11-12)」。施しの多さが天国への梯子とされ、断食の回数が天国への成果とされました。隣人を助けるための律法が、隣人を裁くための道具にされました。ここに、この時代の罪がありました。
 だから、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない(6:26)」。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない(6:28)」。この恵みの世界から、何を学び取っていくのでしょうか。「明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか(6:30)」。
 「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる(6:5)」。祭司や教師たちは、くどくどと長い祈りをしました。長くて立派な祈りをしなければ、神は聞いてくださらないと思い込んでいるのです。「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(6:8)」。
 『たれか洩るべき/主の救いに(讃美歌402番)』。不安なことも、心配なことも、着飾って祈る必要はありません。わたしたちの小さな祈りは、天の国に届いています。ここに、義なる神の御心があります。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である(6:34)」。
 今日の恵みのどれほど十分なことでしょうか。祈って聞かれる恵みのどれほど幸いなことでしょうか。ここに、魂の養いがあります。