囚人として

聖書: 使徒言行録 25章 13節~18節

2020年9月6日(日): 聖霊降臨節第15主日礼拝説教

 「ここに、フェリクスが囚人として残していった男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです(使徒25:14-15)」。

 パウロは、ユダヤ人から激しく訴えられていました。「この男は疫病のような人間で/神殿さえも汚そうとしました(使徒24:5-6)」。ウィルス扱いです。差別や偏見の思いの何と根深いことでしょうか。彼らは、パウロを訴えて止みません。

 新約聖書の中に『訴える(ギリシャ語:カテゴレオ)』という言葉が、全部で22回使われています。そのうちの10回がイエス・キリストに対して、9回がパウロに対して使われています。それだけ人々から責められたことになりますし、それだけ人々と戦われたということでもあります。差別や偏見との戦いは、今も続いています。イエス・キリストの愛の戦いは、今も続いています。

 パウロの無実は明らかでした。しかし、ローマ総督フェリクスは、「ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた(使徒24:27)」。自らの保身や人気取りのためです。こうしてパウロは、囚われの身となりました。それから半年が経ちました。ただ何も変わりません。それから1年が経ちました。ただ何も変わりません。結果として、パウロは、2年もの間、カイサリアの獄中に監禁されたままになりました(使徒24:27参照)。

 じっと耐えるだけの2年間、じっと祈るだけの2年間です。そんな日々に、焦りや不安を感じます。しかし、ヨセフの夢が実現するのに、2年の月日が必要でした。エレミヤの預言が成就するのに、70年の月日が必要でした。ダビデの約束が果たされるのに、500年の月日が必要でした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである(ルカ2:11)」。救いの今日を迎えるために、じっと耐えること、じっと祈ることが必要です。

 祈りの2年間、パウロの心を支えたものがありました。囚われの夜に、イエス・キリストは、パウロに約束されました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない(使徒23:11)」。いつか必ず、ローマへの道が開かれる。囚われの日々に、この約束だけが、パウロの希望であったに違いありません。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(ローマ5:5)」。

 時が満ちて、ここで事態が大きく動き始めます。フェリクスの後任として、フェストゥスという総督が着任すると、「祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男(=パウロ)を訴え出て、有罪の判決を下すように要求したのです(使徒25:15)」。フェストゥスは、彼らの要求に応えて、パウロを牢獄から呼び出しました。「被告が告発されたことについて、原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない(使徒25:16)」。

 法廷に立たされて、パウロは大胆な行動に出ます。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します(使徒25:10-11)」。

 「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように(使徒25:12)」。囚人として、パウロのローマ行きが決まりました。このような結果を、誰が予測できたのでしょうか。神の為さることは、本当に不思議です。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです(Ⅰコリント15:58)」。

 先の見えない日々に、焦りや不安を感じます。「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない(ヨハネ14:17-18)」。囚われの日々に、この約束だけが、わたしたちの希望です。

 全能の父なる神よ、あなたの約束に歩ませてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げします、アーメン。