良心を

聖書: 使徒言行録 24章 14節~18節

2020年8月30日(日): 聖霊降臨節第14主日礼拝説教

 「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています(使徒24:15-16)」。

 『100年前、ある偉大な米国民が奴隷解放宣言に署名した。しかし100年を経た今日、黒人は依然として自由ではない。人種差別の鎖によって縛られている。自国にいながら、まるで亡命者のような生活を送っている。わたしたち今日、この恥ずべき状況を劇的に訴えるために、ここに集まったのである(1963年8月28日、キング牧師の演説、ワシントン)』。

 キング牧師の演説から57年を経た今日、わたしたちの社会は、未だにその夢を果たせずにいます。『わたしには夢がある。わたしの4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国であることを(1963年8月28日、キング牧師の演説、ワシントン』。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラテヤ3:28)」。そこには、どんな区別も差別もありません。これが、パウロの伝えた福音です。

 しかし、多くのユダヤ人がそれに抗い、パウロに対する暗殺計画まで持ち上がりました。事態を重く見たローマの千人隊長は、パウロの身柄をカイサリアまで護送することにしました(使徒23:12-35参照)。カイサリアには、この地を治めるローマの総督領がありました。総督と言えば、ポンテオ・ピラトを思い出しますが、当時は、フェリクスという総督が治めていたようです。パウロの身柄は、彼のもとに一旦引き取られることになったのです。

 すると、「五日の後、大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た(使徒24:1)」。「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました(使徒24:5-6)」。

 彼らの訴えは、パウロに対する妬みや憎悪によるもので、すべて事実無根のものばかりでした(使徒24:17-21参照)。しかし、自分たちの主張を曲げることもありませんし、自分たちの愚かさを認めることもありません。アダムとエバの時代から、わたしたち人間は何も変わっていません。

 ならば、はっきりと申し上げたい。わたしは、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています(使徒24:15)」。正しい者が救われる、というのは、誰もが納得することです。しかし、正しくない者も救われる、というのは、どういうことなのでしょうか。

 ただそうでなければ語れない、福音の真実があります。かつて迫害者の一人だった自分を、イエス・キリストが赦してくださいました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ローマ5:8)」。そのことはパウロの信念ではなく、ただ神の愛に関わることです。

 わたしたちは確かに、肌の色も話す言葉も違います。ただそれが、何だと言うのでしょうか。これは、わたしたちの“lives matter(命)”に関わることです。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています(使徒24:16)」。これは、神の良心に関わることです。良心のトランペットが、今もわたしたちの魂に訴えかけています。

 闇を闇で払うことはできません。それができるのは、光だけです。憎しみを憎しみで拭うこともできません。それができるのは、愛だけです。わたしたちも、主に愛された一人として、本当の兄弟姉妹のように共に歩んで行けますように。神と同じ夢をもって、すべてを乗り越える社会でありますように。

 全能の父なる神よ、我らの歩みを、今こそ愛に変えてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げします、アーメン。