口を打つ

聖書: 使徒言行録 23章 1節~5節

2020年8月23日(日): 聖霊降臨節第13主日礼拝説教

 「大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた(使徒23:2)」。

 『10名以上の警官が、同時にドアを叩き、ベルを押し、ロックを壊そうとした。あの日、9人が逮捕された後、次はわたしかもしれないなと少しは思った。でも警察が本当に家の前に来たとき、わたしは全く心の準備もできず、パニックになり、震える手で友達に“police”の一文字を送った。それはあのときのわたしが唯一できることだった(周庭さんのインスタグラムより)』。

 香港の周庭さんは、国家安全維持法に違反したとして逮捕されました。『結局、今でも、わたしは一体どのような理由で逮捕されたのかまだ分からないし、いつ、どういう形で国家安全法に違反したかも、さっぱりわからない。この不透明さが、まさにこの政治的な罪の本質だと思う(周庭さんのインスタグラムより)』。何を話したらいけないのか分からないので、何を話すのも怖くなります。言論統制というのは、そんな重たい空気そのものなのかもしれません。

 パウロもまた、裁きの座に立たされていました。神殿の聖なる中庭に異邦人を連れ込んだ、というのが主な容疑です。ただそれは全くの思い違いで、そのような事実はありませんでした(使徒21:27-30参照)。だから、「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました(使徒23:1)」。何もやましいことはありません。しかし、「大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた(使徒23:2)」。弁明の機会すら与えられません。これを正当な裁判と言うことはできません。

 異邦人の救いを説いて回るパウロに対して、敵意を顕わにする議員が多かったのも事実です。パウロを極刑(石打の刑)に処するのも、すでに規定路線だったように思います。形ばかりの裁判です。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか(使徒23:3)」。表だけ白く塗って、何となく立派に見せているだけです。「その人が大祭司だとは知りませんでした(使徒23:5)」。その中身は、偽りと傲慢に満ちています。

 もはや正しい判決など期待できません。「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。『兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです』(使徒23:6)」。全く関係のないことですが、そのことで両者の議論が激しくなり、議場が大混乱に陥りました(使徒23:7-9参照)。ローマの千人隊長は、余りの混乱にパウロを力ずくで確保しました。

 議場を混乱させたのは、パウロの策略だったかもしれません。囚われの身になりながら、今後はローマに守ってもらうことになりました。そうなってでも語り続けていきたい、という強い決意を感じるところでもあります。『これから、さらに多くの香港市民が、もっと怖い目に遭うかもしれない。香港の将来はどうなるのか想像することさえ難しいけれど、暗闇の後には夜明けがきっと来ると信じるしかありません。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかを分かってほしい。本当に分かってほしい(周庭さんのインスタグラムより)』。

 「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと(フィリピ1:28)」。パウロもまた、牢獄からたくさんの手紙を書いて、教会の兄弟姉妹たちを励ましました。自由に語ることができる。これこそ迫害の時代に守り抜かれた自由です。自由に歌うことができる。これこそ抑圧の時代に勝ち取られた証しです。真実の言葉が、いずれ白く塗られた壁を剥がしていくでしょう。

 わたしたちもまた、語り続けることで、明日の自由を守っていきたい。歌い続けることで、明日の平和を勝ち取っていきたい。『主イェスの建てし愛の国は、民より民へひろがりゆく(讃美歌412番)』。そのことを心から望んで。

 全能の父なる神よ、我らの言葉を、今こそ自由に変えてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げします、アーメン。