旅を続けて

聖書: 使徒言行録 22章 6節~11節

2020年8月16日(日): 聖霊降臨節第12主日礼拝説教

 「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです(使徒22:6-7)」。

 神殿の聖なる中庭に異邦人を連れ込んだとして、都中がパニックに陥ってしまいました(使徒21:27-30参照)。あまりの騒動にローマ兵たちが出動しても、人々の叫び声は収まる気配もありません。「大勢の民衆が、『その男(=パウロ)』を殺してしまえ』と叫びながらついて来たからである(使徒21:36)」。このままでは、パウロの身が二つに引き裂かれてしまうかもしれません。

 そんな状況にあって、パウロは口を開いて語り始めました。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください(使徒22:1)」。それは自らの弁明というよりも、むしろ自らの半生そのものでした。かつての自分は、キリストの教会の熱心な迫害者でした。「このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです(使徒22:5)」。

 ただ忘れもしないあの日、パウロは主イエスと出会いました。「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです(使徒22:6-7)」。『サウル』というのは、ヘブライ語による古い呼び名です。そう呼ばれて、古い自分と向き合うことになりました。

 古い自分は、真に頼るべきものを知りません。これまでのサウル青年は、律法を第一として生きてきました。ただ今は、目も見えず地に倒れて弱っています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)」。なお今は、この方に頼り祈るほかありません。「主よ、どうしたらよいでしょうか(使徒22:10)」。ならば「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる(使徒22:10)」。

 古い自分は、真に祈られていることを知りません。ダマスコのアナニアは、目が見えないパウロのために祈ってくれました。「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい(使徒22:13)」。パウロの目に、祈りの主イエスが見えました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」。自分で祈っている以上に、今日も誰かに祈られています。「何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい(使徒22:16)」。この祈りに、伝道者パウロが立てられたのです。

 ただそれで、すべてが解消されたわけではありません。依然としてパウロは、罪の中にありました。「主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです(使徒22:19-20)」。こんな自分に何ができるのでしょうか。こんな自分に何が語れるのでしょうか。かつての自分を思うと、悩みや怖さしかありません。

 そんな自分を、主イエスが押し出してくださいます。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ(使徒22:21)」。『つゆほど功のあらぬ身をも/わが主の愛こそかぎりなけれ(讃美歌579番)』。そのことに信じて、パウロは口を開いて語り始めました。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください(使徒22:1)」。それは自らの弁明というよりも、むしろ自らの信仰の証しそのものでした。

 ただこの証しを聞いて、敵意むき出しだったユダヤ人から、何の関心もなかったローマ兵から、信じる人々が起されていきました。『主を仰ぎ見れば古きわれは/現世と共に速く去りゆく(讃美歌579番)』。共に主を仰ぎみれば、わたしたちの人生の旅路も、また新たにされるのです。

 全能の父なる神よ、我らの言葉を、今こそ新たに変えてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げします、アーメン。