門はどれも

聖書: 使徒言行録 21章 27節~30節

2020年8月9日(日): 聖霊降臨節第11主日礼拝説教

 「それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた(使徒21:30)」。

 エルサレム神殿には、全部で9つの門がありました。中でも外庭から中庭へと通じる正面の門は、一際美しく立派に見えました。ただその門には、『異邦人はここより中へと入ってはいけない、入った者は死刑に処せられる』という警告文が立てられていきました。これは、通用門ではありません。ユダヤ人と異邦人とを分ける隔ての壁そのものでした。今回、この門を巡って騒動が起こります。

 都へと帰って来たパウロは、教会の指導者たちに挨拶を済ませ、これまでに「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明(使徒21:19)」しました。コリントでの4年間、エフェソでの3年間、数多くの異邦人が信じて信仰に入りました。どのような国境も人種もありません。キリストには変えられません。すべてはこの一言に尽きます。こうして神が、異邦人の間で行われたことは、エルサレム教会でも大きな喜びをもって受け止められました。

 ただ教会の指導者たちから、一つの懸念が示されました。「この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです(使徒21:21)」。少し誤解があったようです。そのことを異邦人に強要しなかっただけで、割礼や律法を完全に否定したわけではありません。すべては、異邦人に対する配慮(愛の行動)でした。

 ただパウロに対して、反感や不信があるのも事実でした。それを解こうと努めるのもまた、彼らに対する配慮(愛の行動)と言えるのではないでしょうか。愛がなければ、すべては無に等しいのです。そこでパウロは、モーセの慣習に従って清めの儀式を行い、4人のお供を連れて神殿に参りました(使徒21:26参照)。

 パウロがここまでして教会を思うのは、かつて迫害する者であった自分を、主が受け入れてくださったからです。かつて苦しめる者であった自分を、教会の兄弟姉妹が受け入れてくださったからです。その愛に救われた一人として、パウロもまた愛に生きたいと願っていたに違いありません。実にキリストは、わたしたちの平和です。二つのものを一つにする、わたしたちの愛の要石です。

 ただここで、思わぬことが起こります。アジア州から来たユダヤ人たちが、神殿の中庭にいるパウロを見つけて、「この男は/ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった(使徒21:28)」と叫び出しました。少し思い込みがあったようです。「エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼(=異邦人)を境内に連れ込んだのだと思ったからである(使徒21:29)」。

 そんな思い込みから、「都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出し(使徒21:30)」、ある者は殴りかかり、ある者は罵声を浴びせました。あまりの騒動に、ローマ当局も動き出しました。まさにパニック状態です。群がる声の何と恐ろしいことでしょうか。よく調べもせず、よく確かめもせずに、敵意をむき出しにして騒ぎ散らします。「そして、門はどれもすぐに閉ざされた(使徒21:30)」。その門の何と堅いことでしょうか。

 分断というのは、集団によって引き起こされていきます。対立というのは、多数によって煽られていきます。差別というのは、マジョリティ(多数)によって正当化されています。分断の壁は今も高く、差別の門は今も堅く、マイノリティ(少数)を苦しめています。ただわたしたちは、主に愛された一人として、分断の壁を共に乗り越え、差別の門を共に開いて行かなければなりません。

 わたしも、主に愛された一人です。あなたも、主に愛された一人です。誰もが、主に愛された一人です。どのような区別も差別もありません。キリストには変えられません。すべてはこの一言に尽きます。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族(エフェソ2:19)」なのです。こうして神が、わたしたちの間で行われたことを、大きな喜びをもって共に受け止めていきたいと願って止みません。

 全能の父なる神よ、我らの言葉を、今こそ和解に変えてください。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げします、アーメン。