神の望み

聖書: テサロニケの信徒への手紙一 5章 16節~18節

2020年5月24日(日): 復活節第7主日礼拝説教

 パウロは、テサロニケの兄弟姉妹に宛てて、この手紙を書きました。

 「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません/あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません(Ⅰテサロニケ5:4-5)」。

 それは、光のように明るい教会だったのかもしれません。また光と言えば、創造の初めに、神が言われた「光あれ(創世記1:3)」という第一声を思い起こします。太陽や月の光とも違います。その光の何と神秘的なことでしょうか。

 『光(ヘブライ語:オウル)』という言葉は、神を表わす『アレフ』、釘のような形の『ヴァーヴ』、心を表わす『レシュ』という三文字のアルファベットで構成された言葉です。神の思いが釘のように突き刺さる。神の思いがスッと差し込む。ここに聖書の伝える『光』があります。

 そうなると、『光の子』というのは、『神の思いが刻まれた子ども』という意味になります。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい(エフェソ5:8)」。あなたがたも、神の望みに刻まれて、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです(Ⅰテサロニケ5:16-18)」。

 いつも喜んでいなさい。『笑いは最高の薬です』という言葉もありますが、いつも笑顔でいることは、健康にもよいことなのかもしれません。ただ日々のストレスの何と多いことでしょうか。辛いこともたくさんあります。ただそんなときに、ニコッと笑ってくれる人がそばにいると、どれだけ励まされることでしょうか。誰かを励ますために、あなたがたもいつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。「兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください(Ⅰテサロニケ5:25)」。パウロは、生まれたばかりの『赤ちゃん教会』に、わたしたちのために祈ってほしいと願いました。それは、大祭司の祈りでも、大預言者の祈りでもありません。ただその祈りなくして、今の自分を語ることはできません。その祈りから、たくさんの勇気をもらいました。

 日曜の朝、10時30分に『主の祈り』を祈っています。教会に、家庭に、離れていても、わたしたちは祈りに結ばれています。日曜の礼拝も、礼拝後の交わりも、水曜の祈祷会も、すべては当たり前のようで、どれほど尊いことであったのか。今になって、すべてのことが感謝であったと思わずにいられません。

 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか(ルカ15:32)」。父は、息子のことを当たり前のように受け入れてくださいました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ローマ5:8)」。神は、わたしたちのことを当たり前のように愛してくださいました。だから、どんなことにも感謝しなさい。

 『感謝(ギリシャ語:ユーカリステオウ)』という言葉は、『感謝の礼拝』を表わす言葉でもあります。その通り、感謝とは礼拝そのものであり、礼拝とは感謝そのものです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です(ローマ12:1)。

 礼拝を献げることのできる恵みを、わたしたちも今一度、味わい直したいと願ってやみません。

 今日も、あなたの望みに歩ませてください。アーメン。