愛の動機

聖書: テサロニケの信徒への手紙一 2章 1節~4節

2020年5月3日(日): 復活節第4主日礼拝説教

 パウロは、テサロニケの兄弟姉妹に宛てて、この手紙を書きました。

 「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので/なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました(Ⅰテサロニケ2:17-18)」。

 その町には、パウロの命を狙って、今も多くの反対者がいました。とても行けるような状況ではありません。もし出来ることならば、「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。どうか、わたしたちの父である神御自身とわたしたちの主イエスとが、わたしたちにそちらへ行く道を開いてくださいますように(Ⅰテサロニケ3:10-11)」。この祈りは、日に日に強くなるばかりでした。

 パウロが、テサロニケの兄弟姉妹と共に過ごしたのは、たった1ヶ月ほどのことでした。ただ、「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした(Ⅰテサロニケ2:1-2)」。パウロは、フィリピの町でも、あらぬ噂を立てられ、鞭で打たれて、牢に囚われました(使徒言行録16章参照)。

 人の噂の何と恐ろしいことでしょうか。『あの会社でコロナが出たらしい』。その噂に今にも潰れそうな会社があります。『あの家族にコロナが出たらしい』。その噂に今でも苦しむ家族があります。それは単なる『tweet(呟き)』ではありません。これはもはや、立派な暴力ではないでしょうか。「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう(ヤコブ3:5)」のです。

 そんな差別の世にあって、パウロは、神の愛と招きの言葉を語りました。「ちょうど母親がその子どもを大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです(Ⅰテサロニケ2:8)」。『喜んで与えたい(share with you)』。愛とは、分かち合うことです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリント12:26)」。

 長引く自粛に心身共に疲れを覚えています。医療現場も切迫しています。貧困や虐待、DVの問題も深刻さを増しています。ただ「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけでは(Ⅰテサロニケ2:17)」ありません。祈りのうちに、その苦しみを分かち合っていきましょう。政治家の皆さんも、今こそ身を切る政策を!

 それでも多くの政治家たちは、「長い衣をまとって歩き回りたがり/広場で挨拶されること/宴会では上座に座る(ルカ20:46)」ことを好みます。そんな「迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです(Ⅰテサロニケ2:3-4)」。

 神の喜びとは何でしょうか。「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子どもに対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます(Ⅰテサロニケ2:11-12)」。『あなたがたを招いておられます(calls you to share)』。神もまた、わたしたちを招いて、その御国を共に分かち合いたいと切に望んでおられます。

 神の望みとは何でしょうか。だから、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる(ルカ12:32)。わたしたちもまた、その御国を心から望んでいるならば、差別や偏見の言葉に負けるわけにはいきません。「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした(Ⅰテサロニケ2:9)」。

 その愛に動かされて。アーメン。