動き、存在する

聖書:使徒言行録 17章 28節~34節

2020年4月12日(日): 復活節第1主日礼拝、イースター礼拝説教

 「我らは神の中に生き、動き、存在する(使徒17:28)」。

 『桜がキレイですね』と。先週の初め、園庭を掃いていると、ふと通りがかりの人に声をかけられました。ハッと見上げて、『もうこんなに咲いていたんだ』と改めて気づかされました。最近は、新型コロナのことで考えることも多く、桜なんて見る余裕すらなかったように感じました。色々思い悩んでも、色々振り回されても、こうしてまた桜の季節がやって来ました。

 皆さん、イースターおめでとうございます。

 寒い冬を越えて、この春に、主が復活されたというのは、決して偶然ではありません。『球根の中には花が秘められ、さなぎの中から命羽ばたく、寒い冬の中、春は目覚める。その日、その時を、ただ神が知る』と。

 この方を、人の手で造った偶像と同じものと考えてはなりません。古来より、アテネの町は偶像に溢れていました。それだけ信心深いとも言えますが、ただパウロの目には、それもまた『飼い主のいない羊の群れ』のように見えました。あれだけたくさんの神々(偶像)があっても、何か災難が降りかかると、途端にアタフタします。彼らは、真に頼れるものを知らないのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである(ルカ10:41-42)」。その声を聞き分ける羊の群れでありたいと願います。

 ただ神は、こんな無知な時代を「大目に見てくださいました(使徒17:30)」。『大目に見る(ギリシャ語:ウペロラオウ)』という言葉には、『責任をとる』という意味があります。神は、こんな時代の責任をとってくださいました。イエス・キリストの十字架により、わたしたちの罪の責任を代わりに担ってくださいました。誰もが、この愛のゆえに生き、この愛のゆえに動き、この愛のゆえに存在しています。

 イエス・キリストも、わたしたちの只中に、今も生き、今も動き、今も存在しています。「神はこの方を死者の中から復活させて/そのことの確証をお与えになったのです(使徒17:31)」。死を打ち破って、復活のイエス・キリストは、今も生きて働いています。ただこれを聞いて、ある者はあざ笑い、ある者はその場から立ち去って行きました。

 アテネの哲学者の多くは、『人間というのは死んだら原子になって消えてなくなってしまう』と考えました。肉体は滅び霊魂だけが残るとしても、それもまたどこかファンタジーの世界でした。彼らにしてみれば、目に見えるものだけがすべてで、目に見えないものは存在しません。唯物論的な考え方です。

 ただ考えてみると、これが世の中の反応なのかもしれません。二千年来、目に見えないものを信じるというのは、どれほど難しいことでしょうか。最近では、新型コロナの影響で、目に見えて、わたしたちのすべてが壊されていくようで、本当に先の見えない恐怖を感じてなりません。こうなると、人も町も弱いものですね。

 こんな春に、ただこうしてイースターを迎えるというのは、決して偶然ではありません。『沈黙はやがて歌に変られ、深い闇の中、夜明け近づく、過ぎ去った時が、未来を拓く。その日、その時を、ただ神が知る』と。わたしたちも、今こそ信じるときではないでしょうか。

 アテネの町でも、パウロの話を聞いて信じた者がありました。「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた(使徒17:34)」。その数は僅かでしたが、彼らの中に、今も生き、今も動き、今も存在する、復活のイエス・キリストを感じます。

 ならば、復活のイエス・キリストが、わたしたちと共にありますように。特に、教会に、家庭に、すべての祈りに、あなたが共にありますように。また、医療に、介護に、昼夜を問わず働くすべての現場に、あなたが共にありますように。

 我らの恐れを、今こそ信仰に変えてください。アーメン。