だれにでも

聖書: 使徒言行録 2章 36節~42節

2019年5月19日(日): 復活節第5主日礼拝説教

 「邪悪なこの時代から救われなさい(2:40)」。『邪悪(ギリシャ語:スコリオス)』には、『曲がった』という意味があります。御心に反して、罪に曲がっています。自分本位で、神の前にも、隣人の前にも、立ち止まることもありません。しかし、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです(2:36)」。ペトロは、罪の時代に、救いの御心を大胆に語りました。ここに、説教の本質を見ます。説教とは、人の罪の指摘に留まらず、神の恵みの勝利を告げるものです。
 だから、あなたがたは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます(2:38)」。『悔い改める(ギリシャ語:メタノイア)』には、『立ち返る』という意味があります。『洗礼を受ける(ギリシャ語:バプテスマ)』には、『身を浸す』という意味があります。救われた恵みに立ち返り、赦された喜びに浸されるとき、わたしたちの内から溢れるものの何と豊かなことでしょうか。ここに、聖霊の賜物として教会が誕生しました。
 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(2:42)」。『熱心(ギリシャ語:プロスカルテレオ)』には、『決して離れない』という意味があります。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです(2:39)」。わたしたちも、この約束から離れず、神の前に、隣人の前に、祈りつつ立ち止まるものでありたいと望みます。