故郷の言葉を

聖書: 使徒言行録 2章 7節~13節

2019年4月14日(日): 受難節第6主日礼拝説教

「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした(2:4)」。それを聞いた人々は、「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった(2:6)」。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか(2:7)」と、驚き怪しむ人もあれば、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ(2:13)」と、嘲る人もありました。「めいめいが生まれた故郷の言葉(2:8)」で、「神の偉大な業を(2:11)」聞いたからです。
ここに、神の言葉の豊かさを思います。神もまた、ウルの地に暮らすアブラハムには、アッカド語で呼びかけられたのかもしれません。エジプトに暮らすモーセには、古代エジプト語で呼びかけられたのかもしれません。また、16世紀の宗教改革者たちは、聖書の母国語訳への翻訳に取り組みました。そして、この出来事に予見された通り、今や聖書は、2,500を越える国と地域の言語に翻訳されています。やはり、人を救うためには、その人の分かる言葉(=故郷の言葉)でなければなりません。
ギリシャ語で、『δευτε προς με παντες οι κοπιωντες και πεφορτι σμενοι καγω αναπαυσω υμας』と言われても、さっぱり何のことか分かりません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)」と呼ばれて、初めて心から救われます。こうして今や、「わたしたちの言葉(=日本語)で神の偉大な業を、聞こうとは(2:11)」。神の言葉の豊かさに感謝して、わたしたちも故郷の言葉で応えていきたいと願います。