まさしく

聖書: ルカによる福音書 24章 36節~43節

2019年2月17日(日): 降誕節第8主日礼拝説教

 弟子たちが、復活の主イエスのことを「話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた(24:36)」。しかし、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った(24:37)」。確かに一度は信じたものを、こうも簡単に信じられなくなるのでしょうか。『葦の海の奇跡(出エジプト記14:1-参照)』を目の当たりにしたイスラエルの人々も、すぐに疑いを起こして文句を言い始めます。それだけ、わたしたちの信仰というのは、どこかボヤッとしているのかもしれません。
 まさに、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ11:1)」。ならば、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい(24:38-39)」。その手と足に、十字架の釘跡をはっきりと確認するならば、わたしたちは、何をうろたえることがあるのでしょうか。ここに、十字架の救いを確信します。だから、あなたがたも、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20:27)」。
 「焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた(24:42-43)」。この場面に、焚き火の温かさ、魚の焼ける匂い、香ばしい魚の味わいを感じます。見て、聞いて、触って、味わって、そこで初めて、はっきりと分かることがたくさんあります。自分も歳を重ねて、親の思いが分かるようになる。自分も病を患って、あの人の痛みが分かるようになる。そのときになって、わたしたちも、キリストの愛が、はっきりと身に染みて分かるようになるのです。