なぜ聖書を翻訳し続けるのか

聖書: ローマの信徒への手紙 15章 18節~19節

2019年1月27日(日): 降誕節第5主日礼拝説教

 昨日(1/26)は、「聖書協会共同訳の背景とその特徴」と題して、2018年12月に出版された、新しい聖書についてお話をしました。こうして、聖書の翻訳に携わるようになって、特に感じるのは、『人を救うには分かる言葉でなければならない』ということです。宗教改革以来、プロテスタント教会は、聖書を翻訳し続けてきました。また、それぞれの母国語で翻訳されたものを、聖典としてきました。これには、深い意味があったと思います。
 宣教師として、フィリピンに滞在していた頃、小さい娘が、車通りの多い道に飛び出しそうになりました。そのとき、数日前に知り合った現地の人が、娘の名前を叫んで呼び止めてくれました。それがもし、娘に分からない言葉であったら、そのまま飛び出していたかもしれません。こうして、娘も分かる言葉で救われました。同じように、愛の神も、その人に分かる言葉で語られたように思います。
 神は、ウルのアブラムに、アッカド語で呼びかけられたのかもしれない。神は、エジプトのモーセに、エジプト語で呼びかけられたのかもしれない。こうして、現地語に翻訳される神を思います。何より、主イエスは、当時の日常語であるアラム語で語られました。「キリストは異邦人を従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました(ローマ15:18-19)」。
 以前に、『日本語で聖書が読めることを、本当に幸せに思います』とのお手紙を頂いたことがあります。わたしたちも、そのことに幸せを感じていきたいと思います。(説教:島先克臣牧師、日本聖書協会)