待ち望んで

聖書: ルカによる福音書 23章 50節~56節

2018年12月16日(日): 待降節第3主日礼拝説教 アドベント

 ユダヤの人々は、救いの来るのを長く待ち望んできました。「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです(ヤコブ5:7)」。長く待ち望んで、ついにそのときが来ました。神は、御子イエスを、この世に送ってくださいました。しかし、祭司長や律法学者たちは、その贈り物を拒絶しました。自分たちの意に沿うものではなかったからです。そして、十字架にかけて殺してしまおうと企みます。こうして、神の御子は、十字架の上で息を引き取られました。
 遠くで見ていた婦人たちは、その遺体がどうなるのか心配でした。遺体を引き取りたいと思っても、彼女たちには、その力も時間もなかったからです。ただそこに、ヨセフという人が名乗り出ました。主イエスの「遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた(23:53)」。都に自分の墓を持つということは、名誉なことです。それこそが、人生の成功の証しとも言えます。それをすべて、十字架の主イエスのために献げたのです。
 ヨセフは、後悔していました。「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠して(ヨハネ19:38)」きたからです。もっとこうすればよかった、もっとああすればよかった、そのように、最後になって分かることもあります。ヨセフは、後悔しながら、「勇気を出して(マルコ15:43)」、進み出ました。十字架の主イエスが、ヨセフをここに招いて、御業のために用いてくださったのだと信じます。主イエスこそが、ヨセフがここに来るのを、長く待ち望んでおられたからです。
 神も、わたしたちの祈りを待ち望んでおられます。そのことに応えて、平和と感謝に祈りつつ歩みたいと願います。