本当に、この人は

聖書: ルカによる福音書 23章 44節~49節

2018年12月9日(日): 待降節第2主日礼拝説教 アドベント

 「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事(=十字架)を見て、胸を打ちながら帰って行った(23:48)」。胸を打ちながら反省しても、どこか他人事のようです。深いところで自らの罪を顧みることもなく、深いところで十字架の正しさを知ろうともしなかったのです。十字架の一部始終を見て、ローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった(23:47)」と証言しました。『正しい(ギリシャ語:ディカイオス)』とは、『刑罰に値しない』という意味になりますが、英語の聖書では、『本物(righteous)』と訳されていました。この人の成されたことは本物だった。
 「全地は暗くなり、それが三時まで続いた(23:44)」。単なる天候の話ではなく、独り子を思う神の苦しみのようです「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネ3:16)」。ただそれは、狼の群れに小羊を送るようなものでした。ここに、父なる神は、愛する独り子を御許に召してくださいました。ただ召されて、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます(23:46)」。これが、十字架の主イエスの最期の言葉となりました。ただ委ねて、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える(ヨハネ14:3)」。
 すると、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた(23:45)」。神殿には、人の進入を遮る13枚の垂れ幕がありました。特に一番奥の至聖所には、大祭司しか入れませんでした。その垂れ幕が裂かれて、誰もが神へと近づくことのできる、新しい救いの道が開かれたのです。ここに、十字架の正義があります。わたしたちも、この救いは本物だったと、心から信じたいと願います。本当に、この人は、わたしの罪さえ赦して救われます。ならば感謝に、ならば信仰に、罪のわたしたちを新しく変えてくださいと、ただ委ねて祈るばかりです。