この子なら

聖書: ルカによる福音書 20章 9節~15節

2018年4月22日(日): 復活節第4主日礼拝説教

 古くから、ユダヤの人々は、「主のぶどう畑(イザヤ5:7)」に譬えられてきました。「ある人(=神)がぶどう園を作り、これを農夫たち(=人々)に貸して長い旅に出た(20:9)」。そのぶどうを育てるためには、神の語りかけが必要でした。そこで、神は、言葉(=預言者)を送り続けました。
 「ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した(20:10)」。その行為は、さらにエスカレートしていきます(20:11-12参照)。確かに、これまでの長い歴史の中で、エリヤはイザベルに命を狙われ、アモスは聖所から追放され、エレミヤは空の井戸に放り込まれました。
 人々は、神の言葉に聞く耳を持ちませんでした。それが真実の言葉だと分かっていて、それを認めることができなかったのです。農夫たちも、それが跡取り息子だと分かっていて、その子を葬ろうと企てました。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる(20:14)」。
 しかし、神は、決して諦めませんでした。最後には、「この子ならたぶん敬ってくれるだろう(20:13)」と、愛する独り子を、罪の只中に送ってくださいました。こうして、その愛は、小さくなるどころか、ますます大きくなるばかりだったのです。
 確かに、人の頑なさは、今日に始まったことではありませんが、神の愛の深さも、今日に始まったことではありません。『深い恵みに、こころも溶けて、悔いて涙し、み腕にすがる(讃美歌442番)』。今日こそ、その声に少しでも心を傾けていきたいと願います。